セミナー2日目 2022/2/2 19:00〜21:30
報告者:椎名慧都
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セミナー2日目となる本日は、日置貴之氏をゲストにむかえ、川上音二郎の戦争劇についてのレクチャーから始まった。日置氏は江戸時代、明治時代の演劇が戦争・災害・病気などをどう描いていたかなど、歌舞伎を中心に研究を行なっている。

『オッペケぺ』にも描かれている、川上音二郎一座が上演していた日清戦争劇『壮絶快絶日清戦争』の戯曲は、今まで簡単に読むことはできないものであったが、昨年、日置氏の手によってデータ化及び書籍化されたことで、私共も初めて目にすることができた。
福田善之氏は『壮絶快絶日清戦争』の戯曲を読んだ後に『オッペケぺ』をかいたというわけではない。けれども戦争劇を知ることで、なにか別の角度から『オッペケぺ』を読むことができるのではないかと、本日のレクチャーが設けられた。

レクチャーの導入として、日置氏はこのような研究をなぜ行なっているのかについて“全部どこかで繋がっていると思う”と始めたことが印象的であった。江戸、明治、テレビが無い時代、演劇はメディアとして存在し、現代においてのSNSやYouTubeと同じ役割を担っていた。年々、戦争とメディアの関係は大きく変化し、今や当事者自らがlive映像として配信できる時代となっている。私達もまた、それをスマートフォン一つで目にすることができる。江戸・明治時代、観客にとって演劇は、直接目にすることのできないものを追体験する場であったことから、この時代の演劇は今のメディアの在り方とも繋がっているのではと日置氏は語る。

戦争劇の歴史をみていくと、明治期以降、戦争と演劇は密接な関係になっていく。それまでにも古典演劇によって合戦(壬申の乱、平治の乱など)を描いた作品は存在していたが、それらは「戦争劇」としてみられることはあまりない。
明治期に入り、台湾出兵や壬午事変など武力衝突が起こると「戦争劇」として歌舞伎や新派によってリアルタイムで起きている出来事が描かれるようになっていくのだが、当初は、そのまま今現在起きている事として描くのではなく、カモフラージュされたかたちで描かれていた。(河竹黙阿弥によって描かれた上野戦争劇は桶狭間の戦いに置き換えられるなど。)その後、役所から、狂言綺語を使わずに歴史に基づいて作品をつくるよう要請があり、次第に戦争劇は作り話から今まさに起きている戦争を追体験するツールへと変化していく。

この話を聞き、『オッペケぺ』の始まりが現代の俳優から始まることについて福田善之氏がインタビューで話した「こうしか書き始められなかった」という言葉を思い出した。福田氏はこの物語を描くにあたり自分達の近いところから始めたが、黙阿弥や当時の作家は、遠い物語として書き始めたというところが、興味深いところである。

日清戦争勃発と同時期に日本国内では“新演劇”として、様々な演劇が生まれていく。川上音二郎一座の『壮絶快絶日清戦争』をはじめ、日清戦争を題材とした多くの戦争劇がつくられる中、『壮絶快絶日清戦争』が人気となった理由は以下のような特徴があげられる。

・ひとつの場面が短く、スピーディーで荒っぽいが写実的で観客の熱狂を呼んだ。
・日本人の苦難と演説、川上がパリで観劇した「北京占領」のスペクタクル満載の演出を取り入れ、かつ迫真の演技を見せた。
・敵をおとしめる表現を用いて、清軍の不当性を強調した。
・当時、川上は朝鮮に渡り実際に戦地を見に行くことで、人々の興味をさそいさらに人気が出た(朝鮮に現地調査に行くのは『壮絶快絶日清戦争』のあと)。

『オッペケぺ』の城山のセリフにもある「客はいま、何を求めているか」、川上はこれに非常に敏感であり、かつ1ヶ月という早さでこれを成し遂げられたということが川上の凄さを物語っている。

『オッペケぺ』との繋がりをみていく中で、以下のような点があげられる。

・安全な場所から戦争を眺めることのできる「中毒性」。人々はそれに熱狂する。これは現代のメディアにおいても変わらない部分がある。
・演劇の「有用性」。戦争を後押しをするようなものへと国家により利用されてしまう。
・そしてそれらから、自由民権をうたっていた城山は、転向したのかという話につながる。

この疑問は『オッペケぺ』を読む中でおそらく最後まで議論されるところなのでは無いかと思う。レクチャーの後、福田氏のインタビュー映像を見る中で、福田氏は「川上音二郎には変革の志なんかは無かったと思う。それよりも飯が食えないことの方が大事だな」と語る。けれども、その後には「相通じると思っていたんだね、そういう志が」と続き疑問を残してインタビュー映像は一旦終わる。しかし、インタビューには続きがある。『オッペケぺ』は作者の空想によって自由に書かれたものであり、作中に描かれる城山というキャラクターについてのインタビューは、今後聞くことができるということで、そこを楽しみに、疑問を持ちながらさらに戯曲を深く読み進めていきたいと思う。

その後の、質疑応答、ディスカッションでは、
理念と芸術について、明治期の他国での戦争劇について、密偵の話、福沢諭吉と川上音二郎、当時の西洋へ留学する芸人が多くいたこと、女芝居について
など様々なところへと話の広がりをみせた。

このまとめを書いている今、3年前に上演したサルメカンパニー企画公演『オッペケぺ』を演出される際に、福田氏が言っていた「表現者が良いと思うことをやる。そこにほんの少しの思想があればいい」と言っていた言葉が思い出された。まだセミナーは始まったばかりだが、この戯曲を改めて読むことで、演劇と社会と自分を見つめ返すような、身につまされる瞬間が多くあり、充実感を強く感じている。この後続くセミナーがさらに楽しみになるような、レクチャーとディスカッションであった。

セミナー1日目
報告者:篠本賢一
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2022/2/1 19:00~21:30
事前研修の2日間から約一週間、その間にディスカッション・メンバーから「問い」が寄せられ、今日からいよいよセミナー本番となる。
まず、進行役、丸尾聡氏のガイダンス、実行委員の豊永純子氏から、第一幕に寄せられた問いが発表され、さらに、福田善之氏のインタビュー映像を約18分視聴した。福田氏のよると、この戯曲がロジェ・マルタン・デュ・ガールの長編小説『チボー家の人々』(ジャックの反戦ビラエピソード)から着想されたということだ。第一次世界大戦を舞台に、若者たちの生きざまを描いたこの作品のなかで、反戦の思いをめぐる行動の矛盾、運命の残虐さなどに惹かれ、それが戯曲執筆の60年安保闘争の時代とどこか重なり合うところがあったらしい。
インタビュー映像視聴のあと、ブレイクアウトルームに分かれて、ディスカッションが行われた。4つのルームには、実行委員を含めた4人程度と見学者が配置される。本日の課題箇所は「第一幕」である。集まった四つの問いは、次のとおりである。

オープニング なぜ若い壮士の稽古シーンから始まるのか?
(なぜメタ構造なのか、その意図)

第1場、城山のセリフ「客は確かに警察が嫌いさ〜しかしおれはたしかにみたね、客の顔にホッとした色が浮かんだ……やっぱり、とおもったな。あたり前のことだが……」
城山座長は観客という存在についてどう思ってたのか。

どうすれば演劇によって、住民の人権意識は挑発されるか。

第4場、演出家のセリフ「城山の真剣が奇しくも辰也の手によって本当に人を斬ってしまう。このことの思想的な意味。」 (1)セリフに内包された作者が意図した”思想的な意味”とは? (2)(1)の答えを踏まえたうえで、似た事象が60年安保闘争のころにはあったか? (3)さら現代においてそのような事象をピックアップするとしたら何だと思うか?

私が参加した部屋は、④の問いのグループだった。実際の演出家と思われる人物がいきなり登場し、そこまで行われていた劇に批判を加えるメタシアター的シーンで、演出家の口にする「思想」の内実を探り合った。辰也の刀が、小道具から城山の真剣に変わったことは、同じ幕の第3場、奥中のセリフにある「虚と実」にリンクするのではないか、「思想」には大きな意味はない、演出家の登場というショックが問題だ、演出家の観念を語りたがる癖を誇張した洒落ではないか、60年安保当時の既成左翼と新左翼の関係性をほのめかしているのではないか、などの言説が飛び交った。

ブレイクアウトルーム終了後、部屋ごとに問いの発表者がディスカッションの内容を報告した。
城山の意識の変遷について、「民衆」をみつめていたところから「観客」に対象が変わった、社会ではなくアートの革新に変わったなど、それぞれのグループで活発な意見交換があったようだ。
福田氏はセミナーの参加者の集まり具合を心配されているらしいが、まったくの杞憂のようだ。見学者も多数参加し、「オッペケペ」を読むセミナーは、順調な滑り出しで第一日を終えたと思う。

セミナー初日・2日目(事前研修) 
報告者:丸尾聡
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2022/1/21/19:00~21:30
新型コロナ、オミクロン株による、いわゆる第六波の中、今回も戯曲研修セミナーin東京はオンラインで行われた。集まったのは、一般公募により集まった「参加者」、「見学者」、そして日本の戯曲研修部(東京)の担当委員の面々。「参加者」は〈顔見せ・声出し〉でディスカッションに加わり、「見学者」は〈顔出し・声出しナシ〉で文字通りの見学の方々で、チャットで感想や質問を行うことでセミナーに参加する。オンラインならではのスタイルだ。

初日は、総合司会の丸尾聡の挨拶からZOOM使用のルールに関するお願い、全日程の確認、そしてこのセミナーの主旨は、参加者が持ち寄ったこの戯曲に関する「問い」を自由にディスカッションすることで、戯曲を読み解き、今後この戯曲のみならず上演の際の戯曲読解に寄与する目的であることが話された。
続いて戯曲研修部部長川口典成から「戯曲研修セミナーの歴史と目的」をパワーポイントを使用して紹介。奇しくも『オッペケペ』の初演演出者、観世榮夫さんの「近代戯曲を紹介し、残していく」という思いから始まったことなどが語られた。
続いて、参加者、担当委員が福田善之、その作品との関わりなどを含め自己紹介。いつもに増して、様々な年齢層、様々な参加を希望した理由を持った方々が集まった印象だ。

研修にあたり、参加メンバーのなかで最低限の共通認識を持とうと、以下の3点が担当委員よりレクチャーされた。

1、「安保」60年代、政治の季節 篠本賢一  
2、「オッペケペ」の時代と戦争劇  川口典成 
3、「私的 福田善之について」  丸尾聡  

どれも、本来であればかなりの時間をかけて語るべきものであるが、限られた時間の中で、また今後本格的な研修にあたり、論点や「問い」を考える上での参考となれば、という意図でもあり、それぞれ簡潔に。

1は、この戯曲が初演された1963年の少し前1960年から1970年くらいまでの年ごとの出来事を時系列的に確認した。やはり、今の私たちには想像がつきにくい「政治の季節」であったことが思われた。
2では、この戯曲の大きな要素である明治の流行歌「オッペケペ節」がその背景とともに当時の音声を交えて紹介された。また、この芝居の登場人物のモデルとなっている川上音二郎が上演した「戦争劇」についても、本研修2日目に行われる日置貴之さんのレクチャーに先駆けて話を。
3は、「私的」とついたように、当時の総合演劇雑誌「新劇」の変遷などを現わしつつ、福田善之、オッペケペの芝居がなぜ当時評価され、あるいは批判されたか、についてある視点を提示した。

戯曲を上演する際、あるいは文学作品を語る際、そこに書かれたもの以外から考えることは如何なものか、という向きもある。しかし、そこに書かれていることをより深く理解するには、よしんば新しい視点を加味して現代における上演に繋げるとすれば、戯曲の背景、ともいうべき上記3点を知ることは必須であるだろう。

時間があれば、一幕の読み合わせ、前田昌明氏のインタビュー映像の一部も紹介の予定だったが、この後は本日の事前研修の感想や疑問点を皆で話し、終了した。

1/22/13:00〜15:00
2日目の眼目は、『オッペケペ』の劇団新人会による1963年の初演に出演した前田昌明さんのインタビューであった。

前田さんは89歳。今尚お元気で新人会での活動を続けている。
上演に至る経緯、当時の福田善之という存在、初演時、その後の旅公演の様子、また当時の新劇・演劇界について、社会情勢と相まってどんな思いでこの戯曲のセリフを語っていたか、そして同じく出演されていた渡辺美佐子さんの話など、実に興味深い話が共有できたのではないか。

とにかく貴重なインタビュー、映像であった。時間的制約により、この場では3分の1ほどをカットした編集版となった。前田さんが演出を受けた千田是也、田中千禾夫と福田善之の比較、など興味深い話を紹介できなかったところがある。できれば、完全版の一般公開を機会を見て果たしたいと強く感じた。

その後は、初演時の劇評、舞台写真、ポスターなどを紹介。劇評の数の多さと、また批判的な切り口が「政治的・思想的」であることは、ある意味新鮮な驚きでもあったかと思う。

最後に「問い」についての話があった。この戯曲に関する「問い」をしばらく時間が空いてから始まる本格的な研修の前に各自が提出する。「問い」は、戯曲の中から発し、かつ具体的でなければならない旨、確認したが、さて、どうなるか。

なんにせよ、2月1日からのセミナーが楽しみとなった事前研修であったように思う。

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