セミナー5日目(「鹿鳴館」第四幕) 9/18 19:00~21:30
報告者:平野智子
報告者:平野智子
オンラインによるセミナーも5日目となり、初めの頃に比べて参加者も実行委員もこの形式に慣れてきたように思う。進め方は、これまでと同じ。(宮田さんのチェックポイントを聞きながら、実行委員が画面上の台本にマークしていったのは、慣れたからこその工夫)
この日は第四幕。最終景。事前に出されていた問いは以下の通り。
① 影山と朝子は、分布図の〈〈生の領域〉側〉で〈陶酔の振れ幅〉が圧縮されているのでしょうか?(影山、朝子、久雄、清原、その他の死と陶酔をグラフ化した分布図の例示あり)
② 朝子はなぜピストルの音が聞こえても、躍り続けたのか
③ 84~86ページでは、なぜここだけ坂崎男爵や宮村陸軍大将がわざわざ登場して、その妻たちの会話が描かれているのか
④ 第三幕で創りあげられた徹底的に美しい虚構から、贋の壮士乱入、偽の壮士に立ち向かう朝子、清原に騙されたと思って逆上する久雄、永之輔は久雄を殺してしまい、影山は朝子を失うという風に、主な登場人物それぞれを破滅させた。
肉体や精神が破壊された状況において、ラストシーンに鹿鳴館のワルツという美しい虚構をもってきている意図は何か。
私が参加したグループは④で、読み合わせのあと、問いを立てた方がご自分なりの答えを述べられ、そのあとは各登場人物の破滅についてを皮切りに熱い話が続いた。
その中から、いくつか紹介すると…第四幕は、物語のラストに向けて「影山」対「朝子」の対決が描かれているが、冒頭は舞踏会の客人たちがコミックリリーフ的に描かれているため、影山と朝子の会話はホスト役としての社交的な台詞しかなく、朝子が物語に関わる台詞を吐くのは、壮士の乱入から。その急を告げに入ってくるのが給仕頭。(余談だが、ここで宮田さんから第三幕が「給仕長」と「給仕頭」になっていると指摘あり。その後、新しい全集では「給仕頭」で統一になっていると判明)この時の朝子の毅然とした態度は、給仕頭にとっても、影山にとっても想定外で、それがP88のト書き「影山目で叱って去らせる」に繋がっている。そして、この壮士の乱入から、物語の破滅が動き出し、久雄は死という分かりやすい破滅を迎え、清原は息子の死と朝子との絆が崩れることで心神喪失し(菊という約束の証が、物理的・精神的に踏みにじられる)、逆に、影山にとっては、清原がボロボロになった菊をポケットにしまい朝子への筋を通したことによってダメージをこうむり、朝子はもちろん、息子・久雄の死と清原への誤解と絆の崩壊によってどん底に落とされた。そして、P93 で「お待ちになって」と二度繰り返すにも関わらず、清原を追いかけないのは、追いかけるという愛情以上に、影山への憎悪が勝っていたのではないか?という読み解きに至った。
また細かいことだが、宮田さんが「カドリールは、踊りの中で社交が行われている。夫が妻を他の男性に預け、ぐるっと回って自分の元に戻ってきた時に、ホッとする」「華やかだけど、自由ではない」とおっしゃっていたのが興味深かった。
ラストについては、P99は三島による戦後批判だと考えられ、個人的には「カドリール」から「ワルツ」に変化するところに三島の仕掛けがあるように思える。すなわち、「カドリールで偽善に満ちた表面的な社交=鹿鳴館」を示し、上手の舞踏室から流れてくる踊りの集団は、「時代の流れ」を意味し、その「いつわりの恥知らずのワルツ」に飲み込まれていくのか、加わるのか否かの選択に迫られるのが最後の朝子というわけだ。
全体ディスカッションでは、最後のピストルの音やP98の「死人との結婚」が話題になった。「死人」を「しびと」と読むか「しにん」と読むかで中身が変わるという指摘は、実に戯曲セミナーらしく、細かい読みを4日間続けてきたからこそ、そういう細部にも目が行くようになったと、今回のセミナーの充実ぶりを感じた。
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